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語りに入る優作  「写真嫌い」と言われるのと同時に「インタビュー嫌い」とも言われた優作。しかし、実は本になっているくらいインタビューには応えています。しかもインタビュアーによってはかなりフランクにいろんな事を語っています。
 そんないくつかのインタビュー記事や、関係者に語った優作の言葉の中から、僕の魂に響いた優作自身の言葉をいくつか拾っていこうと思います。それらは時系列に並べ、原則として原文のままの表現を使用しております。また出典も明らかにしておきます。興味があったら探してみて下さい。

 

「蘇える松田優作」1974年ごろ「太陽にほえろ!」出演当時の優作
 「俺は監督やスタッフにどんどんアイデアを出したよ。ところがことごとく否定しやがるんだ。セリフでくどくど説明しないでもっと沈黙の演技をしたらいいじゃないですか、といっても駄目。犯人を捕まえるときに何でもかんでも手錠をガチャっとかけてラストになるけど、たまには犯人の肩をたたきながらパトカーに乗せてやってもいいじゃないですか。それも駄目。監督の方が脚本を深く読んでいると思えばそりゃ従うよ。しかしとても納得できる説明はないんだ。やつら、無難に番組ができあがることしか頭にねぇんだ。俺の求めている世界とは違う。テレビなんてそんなものさ。」

「バラエティ」1977年10月号
 「渡さんや原田さんを見てると、何というか越えてるって気がするんですよ。いろんな事全てに関して・・。ストイックに耐えていく作業が、逆に言えば一番闘っている、と・・。何を言われても全部自分の中に飲み込んでしまって、自分がいつ、どこで、それを燃焼させりゃいいかを考えて耐えている。それが、あの人たちの映画に賭ける情熱だ、という気がするんです。実際、渡さんの「仁義の墓場」を見たとき、あの人の中で何かが越えた、と思いましたね。」

− 同 上 −
 「僕は割と輪廻とかいうのを信じるんです。原田さんと会ったときなんか、何百年前には兄弟だったんじゃないか、と思ったりして・・・(笑)。 (略) いや、天命とか宿命があったりするような気がするんです。で、それに対し逆らわないで行こう、と・・・・。ただ、それでも、今闘わなきゃならない事では100%力を出したいな、と・・・・。」

「Movie Magazine」 1977年10月号
 「最初に住んだのは池袋です。ええ。アパート。ま、それでブラブラしてるうちに芝居をやりたいと。でも、まだ芝居って言っても新劇とか何とかってわからない頃だし、高校時代に演劇部に入っていたわけでもないから・・・ただ、劇団入るには金が無くちゃいけないって思ったんで、朝は牛乳配達、昼は皿洗い、夜は夜でまたバイト、なんて生活を一年ほど続けましてね。」

− 同 上 −
 「生まれは昭和24年9月21日、下関市の伊岬町ってとこです。小学校入る前から、日活は観てましたね。そう、裕次郎さんの初期からです。ええ、映画館は近くに日活、大映、東映と揃ってましたし、ストリップ小屋というか旅回り一座の小屋掛けもあり、そこではよくチャンバラものなんて観てましたね。テレビですか?ウチには当時なかったですけど、電機屋の前で・・・・今でもそうですけど長島の若かりし頃の巨人軍が好きでしたね。小学校は神田小学校っていって、あの頃、一人で映画を見に行ってはいけないなんて規則がありましたけど、ウチは兄貴二人とも14、5歳離れているせいか、親の金をかすめとっちゃ、一人で見に行ってましたよ。ある種の後ろめたさというか、あの暗い感じが好きで、いつか明るいところへ行けるのかなぁって思ってました。ま、それは今でも同じですけどね。それとどっかで先生が見てるんじゃないかって、小屋に入る時と出る時、妙に怖かったのを覚えてますよ。」

「バラエティ」Walk and Talk 松田優作 vs 水谷豊 1977年12月号
 「俺は豊のファンなんだ。見ていてさびしい人だなって感じるんだな。さびしい人だよ、豊は。たったその言葉だけで片づけてしまうのは非常につらいけど、さびしい人だよ。生活とかそういうことじゃなくて背景がね。ゼロ歳から25歳の今までの、その背景がね。25年間、目一杯付き合っているわけじゃないけど、なんとなくわかるんだ。」

「週刊明星」 1979年
 「やたら正義をふりまわす探偵ものが流行っているけど、この工藤俊作はちょっとズッコケてて、いい加減なところもある探偵なんだ。そのヘンが気に入ったね。ライバル番組?まあ「ルパン三世」ってとこかな。」

「バラエティ」 1979年 7月号
 「僕みたいなチンピラでもやっていける映画界というのは不幸なのかも知れないけど、だから逆に主演できるってことは幸せなんじゃないですか。やりたいと思うことは、もうみんな先輩達がやっちゃって、何も残ってないでしょ。渡哲也さんは、最後の映画スターだと思いますよ。僕なんか、スターじゃなくてズターっていうか、ガターって感じね。でもいちいち悲観してたらやってけないってとこもありますからね。」

「週刊明星」 1981年4月23日号
 「ファンほど恐ろしいものはないし、勝手なものはないし、また、ありがたいものはないですね。その時ばっかりに固執して、こっちが抱き込んでいこうとしても、向こうはどんどん変わっていってしまうし、ぼくよりいい人を見たら、そっちへ行っちゃうしね。それを「待て」とも言えないでしょ。こだわってしまうとかえってつまんなくなってしまうんですよ。」

− 同 上 −
 「でも、ダメですね最近は。すぐ酔っちゃうから。このごろ、映画に入ってからはほとんど飲んでませんなあ。2,3杯くらいいっちゃうと、もう、いい気持ちになって、そのまま寝ちゃうというふうにね。どうなんですかねえ。年なんじゃないすか(笑)。」

− 同 上 −
 「僕は彼(ショーケン)のあとから追いかけ、しがみついている感じ。きっと生涯抜けないんじゃないですかねえ、あの人を。ぼくとは妙な因縁といいますか、「太陽にほえろ!」で一躍有名になって、番組を抜けて、そのあとがまに入ったのが僕だったでしょう。それが僕にとって大きなことでしたからね。ライバルっていうふうに自分で思うほどライバルじゃなかったんだけど、えらくでっかい人で。彼がいたんで、いつも追っかけてる、ここ何年間、彼のおかげで触発されてきたっていうのはありますよね。」

「バラエティ」 1981年6月「ヨコハマBJブルース」特集号
 「丸山と二人で反省したんだわ。正直言って、このホン(脚本)に俺は相当入れ込んだからさ、やっぱり・・・。アカンね。だめ、つまんない。自分が一緒になってやったから余計そう思う、というわけじゃなくてね。今までのあれにすればさ、そう悪くないと思う。だけど上にハネてない。それは俺も錯覚があったからさ、えらい勉強になってます。今回。(「野獣死すべし」みたいな)ああいうマニアックな部分じゃないの。マニアックなのは次(「陽炎座」で)やりますから(笑)。」

− 同 上 −
 「工藤さんとやることになって具体的な話になって、ハンマーでガツーンとやられたような気持ちになって、つきものが落ちたような、目から鱗が落ちたちゅうかね・・・。"真面目にやります!"みたいなもんでね(笑)。機会があれば、今後2回、3回と間隔を見ながら工藤さんとやれれば、今回よりもうちょっとハネたものができるかも知れないという期待と願望がある。いろんな条件が、今回は悪かったけども、無理してきてもらったし・・・最高ですよ。。」

「バラエティ」陽炎座談会1981年12月
 「気持ち良かったとしか、もう言いようがない。前回の工藤さんの時もそうだったし。少しずつ社会復帰してくるとさ(笑)、ひとつ終わったなという、終わった後の問題があるんでね。もう公開が始まっているけど、あんまり関係ないのね。原田さんとか道代ちゃんとか鈴木さんと会えて酒が飲めるのが幸せなぐらいでね。」

Studio Voice 1982.6.
 「レコードとか、音方面に関しては後悔しますね。音楽に関してはまだ幼稚園ですから、ときめきと震えと不安しかありませんけど、映画の場合はその度その度、上がってくるラッシュを見ながら監督なんかと確認しあったりね。取りこぼしたり、付け加えたりという作業だから、ラッシュを見ないと自分の場合は。もちろん、映画のケースにもよりますけどね。だから、全部含めてですから、試写室に入ることも、映画を撮るときも、どこがどうって切れ目がないですね。」

− 同 上 −
 「僕らみたいにころころとポリシーが変わってるとね、既にポリシーでも何でもなくなっているようなものがポリシーだったりしてね。だから一週間がどれだけの一週間か分からないしね。例えば映画を二週間で撮る場合と、一年かけて撮る場合と、ほとんど費やすエネルギーが変わらない場合と変わる場合があるけれども、それさえも時間の問題じゃなくてね。」

− 同 上 −
 「理想とか、無理ですよ、やっぱり。向こうの感覚に合わせるというのは、時差なんか違っちゃうとね。時差が違っちゃうと同じ人間じゃないと思っちゃうから。だから、こんな狭い国で意識だけはメジャーとかマイナーとか言ってても、そんな差は基本的にないですからね。あっちゃの国だったら、ニューヨークじゃバンバン撃っている、カリフォルニアじゃサーフィンやっているなんていう広い国でしょ。こっちの国は基本的には法律っていう決められ方がしっかりしているでしょ。だから何がメジャーで何がマイナーかというと、ルールを破った者がマイナーで、ルールに合わせていくのがメジャーだと。そんぐらいの物差ししかないんだよね。別に部落性も地域性もあるわけじゃないしね。そんなことを考えてたら、この国で考えている"理想"っていう言葉ってものは、できれば向こうの話と比べて、どっかに無理だという感じがあるね。つまり結局は、かなり下の方の話なんですよ、そんないい話をしても。」

− 同 上 −
 「でも犯罪を犯すというのは「ここまで」と引かれている線を切ることなんだよな。犯罪というのは可能性ですから、「ここまで」と決められている部分を犯していくってことは、可能性に挑戦しているんだよね。、まあ、犯罪者はこんなこと考えてないと思うけど。危険なことを犯すかどうかってことになると、矢沢(永吉)さんはやっぱり犯したんでしょうね。だから結局、そういう言葉で自分を正当化していかないと自分自身つらいこともあるだろうと思うしね。」

− 同 上 −
 「野獣死すべしやる時にね。まぁ前に藤岡(弘)さんとか、やっててね。で、代表作ですからね、大藪春彦さんの。嫌でね、やる時に。このことについて相談してああいうふうには絶対にしないと、一切、こっちでやりたいと言ったけど。とにかく野獣死すべしで伊達のね、肉体を全部捨ててしまおうというのがあって、だから街中でひっそりとしてる男を演じるためにはどうしたらいいのか、ってね。真剣にね、足を5cm切ろうかと思った。で、調べたりなんかして・・・。実際にね、2m50くらいあるアメリカの女の人が、10cm切ったっていうのがあるんですよ。だけど、その時はいいんだけど、一生歩けないわけじゃない?松葉杖でねぇ。本当に切ろうと思ってね・・・。」

1983年度 キネマ旬報 主演男優賞を受賞して
 「もらってしまえば、さして感慨もないというのが"賞"ですが、手に入れるギリギリのところではドキドキしたり、不安だったり。子供っぽいところでの興奮みたいなのはあるみたいですね。単純、かつ複雑に嬉しいてところですけど、とりあえずは、ひとつのケジメになったと思います。キネマ旬報の賞は欲しかったもんですから、ここは正直に"素直に嬉しい"ということでいいんじゃないかって思います。」

「MORE」 1983年2月号
 「最近は映画を意識して見ない。僕が一番やりたいメディアは映画なんだけど、今は逆に離しておきたいんです。言いたいメッセージがごちゃごちゃありすぎて、何を言っているのかわからないような映画が多くてつまらなくなってきてる。今は逆に日常生活のなんでもない一場面を演じるときテレビしかないでしょ。だから今はそういうものをやれるまで、テレビにこだわっていたいと思っているんですよね。」

− 同 上 −
 「僕は観念的なもの、意識的なものを、自分の芝居に取り込みすぎていたんですね。で、一度自分の中に取り込んだものは捨てられない。そして何かを演じる時につい、僕はあれもできる、これもできるって風になってきてしまう。頭ばっかり大きくなってっちゃってね。日常生活のディテールの中にドラマがあったりするでしょ。僕はそんな簡単な事に長い間気が付かないでいたんですね。」

− 同 上 −
 「今すごく自分の中でさえてるなと思ってる時間、たくさん持ってるけど、それはやっぱり、死ぬまで続くものでもないですから。だけど年とっていくと、だんだん単純になっていくと思うんですよね。その時に、かなり鋭利にものを考えれるようになっていてもいいんじゃないかと思うんだけど、それにしても、やっぱり鈍くなっていくと思うしね。やっぱり今、自分が複雑にものを考えたりすることを、いちいちね、拾っていくとこんぐらがってくるから、とりあえずやることだけ、今見つけて、やってはいるんだけれど。そん中で、こぼれていっちゃったものとか、その時期にやってけなかったものとか、拾い歩く作業を、こしこれから四十ん8いなった時とか、やってけるようだったらね。そんな時には立場を変えて、プロデューサーしてたり監督してたりとか、そういうことはあるかも知れないね。」

「コスモポリタン」1983年2月号
 「役者っていう商売そのものは、非常に子供っぽい自己中心的な商売ですから、ある意味でそんなことに気を遣わなくていいといえばいいんです。演技派というか、いぶし銀のように光るというか、職人さんのようにこれだけ演らせればうまいというやつ・・・・逆に言えば何をやっても同じということにもなるけど、そういう道もある。でも、僕は嫌ですからね。」

− 同 上 −
 「鈴木清順監督と仕事をしたときは驚きましたね。言葉ではうまく表現できないんだけど、異常に頭のいい人でね。演技指導なんかでも、新劇の俳優さんとか"芝居とはこういうもんだ"と思いこんでいる人に対しては、NGだとかテストだとか入れて60回くらいもやり直させたりしましたね。本人がすっかりわからなくなったところで"じゃ、それで行きましょうか"って。ぼくなんかパーだから、これでいいのかなあ、なんて思いながら演ってると"はい、それでいいです"なんてね。最高でした。」

「JUNON」 1983年6月号
「山崎努さんにしても緒形拳さんにしても、バランス悪いところはあっても、常にその反対側にどっかスケベエな感覚を持っているから、生活部分はそれとしておいてやっていける、それが色気になっているんだろうと思いますけど、ぼくら、どうしてもまだ幼いからねえ。いずれ、だから、スケベエになっていかなきゃいけないんじゃないかという風に思いますけどね。と思いたいんですけどね。」

「バラエティ」 1983年8月号
「すごい人ですよ(内田裕也さんは)。去年一年間のうち三分の一くらい一緒にいましたからね。非常にいい付き合いですね。以前から知ってましたけど、こうやって頻繁に会って話をするとか、ロックから映画からいろーんな事を含めて付き合うようになってから、まだ一、二年ですか。最近そういう風にして会った人で刺激になったと思うのは裕也さんと黒田征太郎さんですか、イラストレーターの。ふたりは一番好きですねえ、今。」

「non・no」 1983年10月5日号
「俺は若い人に、自分の中の変化と重ね合わせて映画を見てもらいたいんだ。きっかけは『スターウォーズ』でも『たのきん映画』でも何でもいい。劇場のあの暗がりの中に入ったら、自分の過去や未来がいろんな形で浮かんでくる。そんな世界があるってこと、知って欲しいですね。」

− 同 上 −
「なんで女の人を好きになるのか?そう聞かれたって答えられません。うーん、顔もきれいだし、心も広いしなぁ・・・・。と言ってみたって、言葉の端々が嘘になっていくんだから。男と女は赤い糸で結ばれているいうけど、それじゃその赤い糸が二本も三本もあるのかよ!ってことになってしまうでしょ。年齢が進んでいくうちに、人間はいろんな人と出会います。若い頃、10人の中から一人を選ぶのと、後になって100人の中から一人を選ぶのとでは、えらい違いですよ。」

「With」 1985年1月号
「この前モロッコに行ってきたの。砂漠をね、老人や子供たちが水を運んでいるの。ニコニコしちゃってさ、元気なのよ。すごく!子供がロバをバンバン引いて。親父は怠け者だからだらだらして、子供は早くあんな風に大人になって怠けたり、不良やったりしたいから働いちゃうの。それが普通の生活なの。市場があって、カスバみたいなのなんだけど、夕方4時くらいから夜の12時過ぎまで人の波が途切れないのよ。大道芸人とか蛇使いとかいてね。人々の熱気とか話し声とかが、ワーンと空まで轟いて。そういう中にいると、大地の力強さみたいなのが素直にわかるんだよね。言葉なんてこんな時にしかいらないんじゃないかと思ったね。フィジカルになりたいね。今。」

「HEIBONパンチ」 1985年7月8日号
「俺は男と女の話をやりたかった。監督や俺のような新しい酒を、古い革袋の中に入れるとどうなるかってことだよね。いい映画になります。ロバート・デ・ニーロが『恋におちて』で同じような題材をやってるよね。今までは悔しかったけど、こんどは『それから』の方が格上ですよ。今年のベストワンになりますよ。」

「スコラ」 1985年10月24日号
「直接には映画と関係なくても、何にでも興味が向く。今は俳句と能と詩人の世界だね。詩人は(中原)中也、それに今勉強しなくちゃ・・・・と思っているのが宮沢賢治。賢治ってさ、曲作って演奏したりしてたのね、「朝日新聞」に東北新幹線の盛岡かどっか近くの駅かで賢治の作った曲が流れるんだって書いてあったよ。俳句もね、別に「それから」やったからってことより、自然とそうなるのね。結局何でも連動してるんですよ。役者なんて商売やってるうちに何かこう、段々物足りないものとか必要なものとかが、音もなく近づくんだ。理由はないの。自分の心の匂いと応じながら、そうなっていく。」

− 同 上 −
「興味なんてものは、まずは自分の周りにあるものを否定したり肯定したりすることから始まる。環境の中で自分の生理とか、同じ匂いがする、とかで選んでいくしかないじゃない。」

− 同 上 −
「僕は別に変身してきたつもりはなかった。そういう風に言われるのは、逆にいうと"アレは松田優作(の本質)じゃない"と気づく人が多くなってきたってことじゃないかな、だんだん。でもね、ピストル持って走り回ってるような役しかなかなか来なかったけど。」

「PLAYBOY」 1985年12月号
 「去年の9、10月ですよね。それも変なきっかけでね。エージェントのKさんという人がいて、実は僕が「人間の証明」をやった時に助監督をやってて、ひっぱたいた事があるんですよね(笑)。その後アメリカに渡って、日本映画のいいものを入れたりしてがんばっているんだけど、去年日本に来たときに久しぶりに会って、「家族ゲーム」を見て、あれをアメリカに持っていきたいと。それと同時に、何かジャパンソサエティというところが、日本人新人監督週間というのをやるについて、それも頼まれてきているというものだから、それをある程度僕がピックアップしてあげた。つまり僕としては、日本映画を10日間なら10日間、日替わりで上映して、その中のひとつだと思っていたんですよ、「家族ゲーム」は。そうしたら、そうじゃなくて、「家族ゲーム」だけはちゃんとしたメジャーの小屋にかかって、ニューヨークタイムズのビンセント・キャンディという大変な批評家が、最高傑作だと絶賛してくれた。だから、初日の日に小屋に行ったら、もう長蛇の列で、看板も森田芳光とゴダールが同格で、でっかいやつが掛かってる。それでちょっとびっくりしちゃって、劇場の中へ入ったら、日本人はひとりもいなくて、全部外人で、それが大笑いしてるし、受け方もすごいしね。終わると、向こうの若い監督とか役者とか来て、余裕だね、こっちは。「まぁ、がんばれよ」とか(笑)。」

− 同 上 −
 「これで、日本の映画状況がどうだのこうだのとか、黒澤明の映画がどうだのこうだのとかいうような、そういうぐずぐず泣いている暇はねえなと。とにかくアメリカで通用することがわかったんだから、俺たちの方法論というのは間違ってなかったんじゃないかということが、監督と二人でわかったということであって、そしたら二人で「家族ゲーム」以上のものを作っていかないとまずいなということで、元気になって帰ってきたんですよ。」

− 同 上 −
 「実際に自分の生きているリアルタイムと、それからその役に人格を吹き込んだときに、その人格が何センチか浮いたりなんかするとき、なぜ浮くんだろう? と、いうようなことを具体的に画(え)にしていくという作業をやっていくときに、ナルシシズムとか、そういう言葉じゃなくて、やっぱり芸術してるとか、そういう気分になるときがあるんですよ。その時は客もクソもないですからね。」

− 同 上 −
(映画『お葬式』への出演依頼について)「偉そうに言ってしまえば、山崎努の脇役なんかやってられねえよということなんですよ。遊びでゲストっていうのは嫌なんだよね。だから、猫八さんでよかったと思うし。伊丹さんは『家族ゲーム』で一緒で、非常に勘の鋭い人で・・・・。頭はいいんだけどね。その人が監督をするっていうんで、脚本ができたときに読んでくれませんかと言われて読んで、面白かったですよって話して、何かお手伝いが出来ればいいねっていうぐらいの話だったんですよ。だからお手伝いができなかったというだけのことで・・・・。彼のレトリックで文体で撮れば、結局『お葬式』みたいになっちゃうでしょう。俺はあの映画嫌いだから。はっきり言って。だって血が通っていないんだから。魚眼で全体を観ているような目だからね。」

− 同 上 −
「ありましたよ。自分の柄とか雰囲気とか、ピストル持って走ったりして、撃つことだけ、カッコよかったりすることだけを工夫してれば、何とか絵は繋がると、そういう時期もありましたからね。そういう、観客に失礼な時期が。だから「太陽にほえろ!」の時は役者じゃなかったんですよ。好きじゃなかったしね、あの映画は。自分のナチュラルな生理から言えば、ほとんど嫌なところだったというか。人間関係とかね、実際に出ている役者さんなんかもね、ほとんど嫌いでしたからね。だから「太陽にほえろ!」に入って5週目ぐらいでもう、ぶっ叩いたりとかね。助監督から、監督から、プロデューサーから役者まで全部(笑)。」

「毎日グラフ」 1986年4月6日号
 「たとえばアクションならアクションに対してだいぶ間隔がありましたからね。だから時間が経ってやっとやれるなという・・・・・わかります?言ってる意味。アクション映画として最後にやったのは「BJブルース」ですよ。だから「それから」が終わって直ぐ「それから」みたいな映画をやるのは無理ですよ。やっぱり一年くらい必要ですよ。アクション映画に関してはやっぱりすごくありましたから。三年・・・・いや三年じゃきかないな。四、五年くらいね。だからその思いでやれるわけです。充分、時間があったと言える。わかります?言ってる意味。そういうことなんです。」

「JUNON」 1986年4月号
 「世間は『松田優作は着々と・・・』なんて言うけど、着々なんて言うのは、そんなもの、目的じゃないもの。家を建てたとか子供が産まれたとか、俺の中ではそういうものは着々でもないしねえ。家とか、家庭とか、着々とか、ないわけでねえ。だって70年しかないんだから、人生って。ただ、ゼロとの落差はつきやすくなったかも知れないね。でも危険度は相変わらずですよ。むしろ増してんじゃないかな?だけど、ま、いつゼロになってもいい覚悟はしているから。転げ落ちるのは全然怖くないよ。だって、物質的に欲しいもの、ないんだから。」

− 同 上 −
「石橋(凌)っていいんだよねえ、これが!4年前からのつきあいで、初めて会ったときひらめいたんだよね。俺っていつも人とはひらめきで出会ってるから。やっぱり理屈じゃないもんねえ。その時から、絶対一緒にやろうと思ってたからね。もしかしたら誰かが先に石橋を使うかも知れないと思ったけど、この国の映画プロデューサー達ってなまけものだし、耳も悪いからロックコンサートなんて行かねぇのね、あんまり(笑)。ほんとにあいつを4年間も放っておくなんてねえ。それが俺にとっては幸せだったけどね。あいつ、スターになるよ。絶対。」

第11回湯布院映画祭「ア・ホーマンス」シンポジウム1986.8.23.
「全部に感性を開いてないと、これから新しい映画っていうのは出来ていかないと思うんですよ。ですから、もちろん音楽もそうだし、それからやっぱり絵を見ることもそうだし、土をいじることもそうだし、風を感じるのもそうだし、ありとあらゆるものに関して敏感じゃないと、当然人間に関しても敏感になれない、と。誰でも目立つことに関してはすぐ気がつくんですけども、やっぱり潜在的に隠されてるものってのに気づくためにはいろんな角度でその人の考え方とかしゃべり方とか、それから目の見つめ方とか、耳の良さとか、音楽の趣味とか、全部含めて映画に絡み込んでいかないと。」

「SOPHIA」 1986年10月号
 「ぼくはいい男とかどうとか、あまり興味ないんですよ。なにかどこかちょっとイノセントだったり、フリークしている部分があったり、肉眼ではちょっとわからないんだけど、仕草でも、しゃべり方でも、なんかリズムが違っている、どこかつまずいたりしている、破れている、そんな人って、男でも女でもチャーミングに見えるんです。」

− 同 上 −
 「いませんね。仲間なんて。先輩でも後輩でも、同じくらいなやつでも、緊張できる関係がいいわけで、そういうのは仲間っていうんじゃないですよ。ナアナアで仲間だから勘弁よっていうのダメなんです。」

「ア・ホーマンス」ロングインタビュー キネマ旬報 1986年10月上旬号
「誰かがやらないと、ねえ。200年も300年も生きてやるんだったらね、そらもう少し長く走ったり、もっと無茶苦茶やってますけど、70年でしょ。これからやったって、50までやれるかどうかでしょ、一応主役で。あとはボケ老人やったりとかね。勘弁して欲しいと俺は思うわけ(笑)。そのために今一所懸命やってないと。もう構っちゃいられないですよ。」

− 同 上 −
「いいんじゃないですかね、36ですから、まだ。向こうの役者なんてデビューは30からですからね。僕なんかはもう23、4ぐらいでデビューしちゃってるから、ホントなら息切れしてますよ。だから、20代は走って、ファッションでピストル撃ってきたけど、30代は初めてやっと役者に向かわなきゃいけないという、その準備をしてるというか、その練習をしてるというか、まず心のフラットさを今すごく勉強してる。40からですよ、無茶苦茶やるのは。待っててくださいよ(笑)。」

「ビデオコレクション」1988年6月号
「やはり、これからの映画を背負って立つ奴のひとりだよね。今はちょっと怠けている。もっと責任あるはずだけどね。話していると奴の持っている感性とか勘のようなものは、当たっているよ。でもそれを具体的にしていく作業を怠けている。もっと欲出さないと。(『嵐が丘』で壮絶な決闘シーンを演じ合った古尾谷雅人について)」

「スコラ」 1988年6月23日号
 「日本映画は大きな中途半端をやってるじゃない。例えばSF映画なんて呼べるものがある?どこにもねえだろう。SFがどうしたなんて言える状態じゃないだろ。作れないんだからさ。それが全てを物語ってる。市場が世界に向かって無いじゃない。香港映画に負けてるし。いくら中国で『敦煌』なんてやっても爆笑だぜ。市場は日本以外にないもの。それをどっかの会社が社運を賭けてやるっていうのは、金余りの会社が名画かなんか買うのと同じもん感じるね。」

− 同 上 −
 「探偵物語。もう10年近くになるけど、あれだってやっとこさ企画通して、頭下げて、そんなもん作られたら困るって散々言われて、それでも強引に作ったものなんだから。今になって、あの時あれを散々こき下ろしたプロデューサー達がさ、今になってだよ、「ああいうのをもう一回やってくれませんか?」って言うんだ。「そんなもん作るんじゃねえ」って言っていた奴等がだよ?そんなの意地として、やれると思う?同じ事を。はじめから理解してくれて、一緒にやってくれたんなら、「もう一回やってよ」って言われたらやりますよ。もちろん。理解されてやってたってことは、まだやり残した事がたくさんあるんだもん、でも否定されてやり続けるってことはさ、やることより、何でこれがわからないんだろうってことをアピールしなくちゃいけないから、余計なエネルギーを使わなくちゃならない。モノを作る作業になってないんだ、どっか半分は。」

「キネマ旬報」 1988年10月上旬号
 「勝負じゃないんだ、一緒に作っているんだ。監督に勝てるわけはないんだから。ただ、バカな監督が多いから俳優が勝てるだけでね。でも、いるんだな、とんでもない監督がね。ちゃんと見ている。監督は現場でアンテナ張っているんだ。俳優は演じる、ということで電波を出しているけれども、同時に見られている意識がある。それを判断しようとしている監督が、俳優の電波をかんじ「違うな」という。そうすれば、今度は、俳優が「何ミリかな」という確認をする。俺がそうした微調整ができるとなれば、今度はそれに応じて監督の要求も多くなる。」

「PENT HOUSE」1988年10月号
 「深作さんはスゴイよ。メジャーの中にいて、唯一いろんな企画にチャレンジしてるもの。それなりの俳優使ってきちっと遊んでる。唯一すごいと思う監督だな。対照的なのが伊丹十三だよ。あのバカ。本人は遊んでる気なんだろうけど、三國連太郎さんと山崎努使って、あの程度っきゃできねェ。あんなの大人の遊びじゃねェ。子供だよ、子供。(中略)あれでもっと豊かに、もっと素直で激しく、危険にっていうのが加わればいいんだ。才能はあるんだもの、彼は。ちょっと子供の遊びが過ぎてんじゃないの。」

「ブラックレイン」撮影中の優作が山口猛に 1988.11.28.
 「全然、違うぜ。何がっていうわけではないが、とにかく役者に対する要求もそうだ。マスターショット撮りだから、同じ事を何度も繰り返す。その度に芝居を変えたり、カメラの位置も引いて撮った後にアップと繰り返すのだが、監督の要求に対して「出来ない」とは絶対に言えないんだ。出来なければ「なぜだ!なぜ出来ない。君は俳優だろう。演技をすることでギャラを取っているんじゃないのか。それが、どうして要求するようなことが出来ない」というわけだ。出来なければ簡単なことでクビだ。それはスタッフにしてもそうだった。もう助監督が早速クビになったんだ。」

日本テレビ「オシャレ30▽30」 1989年8月20日
 「それで、芸人はその、なんすか、あの、悲惨な方がいい、破滅型がいいとかなんとかいって、みんな泣きながら死んでいくわけだからね。結局最後は・・。 自由になれなくて、結局。なんかお酒でいったり、女にいったりとか。そんなのは結局しばられていくわけだから。結局、自由じゃないですよね?」

「華麗なる追跡」ロケ先より大木氏への電話 1989年9月
 「3日後にロケが終わる。バンコク空港で待ってるから来てよ。ちょっと二人でプーケットへ行きたいと思っているんだ。ユーさん、まだまだ。あれは(ブラックレインは)松田優作プロモーション・ピクチャーだよ。」

西窪病院入院中に担当医師である山藤氏に対して 1989年
 「自分は死んでも、肉体は無くなるんだけども魂ってのは宇宙にいる。宇宙に無数の星みたいなのがあって、その一個が私の魂の星なんです。それが何年か後に、私と同じ様な人間がまた出て来る。その魂と同じ気持ちを持って出て来る。魂ってのは絶対になくならない。その中で魂を強く持ってる,それが必ず未来に出て来るんです。」

<番外>ブラックレイン監督リドリー・スコット 「リドリー・スコットの世界」2001年4月
 「彼は、実に痛快な日本のテレビドラマの主演で知られている、本質的にはコメディ俳優だった。たぶん、優作は大勢の女性ファンから愛されていた人気者だったろう。ともかく、日本では絶大な支持を受けていた男だ。個人的には、彼をどんな風に感じていたかって?実に良い奴だったよ。正真正銘のナイス・ガイだった。」

<番外>松田美由紀 [LIVE 11] 2001/11
 「ダーリン、お元気ですか?上の方は、毎日、天気が続いてて、きっと気持ちがいいんでしょうね。優作の髪が風に吹かれて、遠くを見つめてる横顔を感じます。いつも感じていました。道を歩いている時も 電車に乗っている時も。いつもいつも、優作が後ろに立っていて抱きしめられているカンジ。背中があたたかくて安心なカンジがして気持ちがいい。でも本当はいつも一人。あたり前だけど。後ろを見ても、振り向いても誰もいない。まさか、私の肉体なんて、入ってくれるわけないけど。優作の小指のさきをなめたからたぶん、えいようになってるはず。私のダーリン、私のダーリン 何年たっても、どうして涙が出るんだろう。ダーリンの髪がゆれてるよ」

これから、少しずつ増やしていきます。ご期待下さい。

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