優作のプロフィール HOMEに戻る

1949年 9月21日山口県下関市に生まれる。父親は長崎出身の保護司・大村。母は下関市今浦27番地に「松田質店」を出していた在日韓国人のかね子。かね子には松田武雄という夫が居たが、1943年ニューギニアのハンサで戦死していた。武雄との間には東、丈臣という2子があった。はかね子は知らなかったが、大村には長崎に妻子があった。大村は優作が宿ったことを知って長崎に逃げ帰ってゆく。こうして韓国と日本という2つのアジアの血を受けた優作は、異父兄2人と共に、母かね子の女手ひとつで育てられる。なお、戸籍上は、届け出が遅れたために1950年9月21日が出生日になっている。
誕生の地、下関市界隈
1957年 下関市の神田小学校に入学。ここで恩師、沖中忠義先生と出会う。クラス一番の大柄な優作は、新田正、大河内誠の二人を子分各に従え、ガキ大将となる。先生が手を焼く生徒だった。
神田小学校
1963年 小学校の卒業文集には「偉大なことをしたい」、さらに寄せ書きには「前進さらに前進」と書いた。4月、山の上にある文洋中学に入学。その翌年に、兄2人とは父親が違うことを知らされる。
1966年 下関市立第一高校に入学し野球部に入部。
優作が白球を追った市立第一高校のグラウンド
1967年 2年生となり、サッカー部同好会を作る。また、同年には生徒会副会長に就任する。二学期の終わりに、母の薦めでアメリカ在住の叔母を頼り渡米し、弁護士になることを夢見る。母は優作に「大石内蔵助」「桃太郎」の本を持たせた。アメリカではシーサイド大学の付属高校に入学。が、まもなく学校に籍をおいたままヒッピーまがいの生活に入る。
1968年 挫折し、9月に帰国。兄の東の住む池袋で生活を始める。すぐに豊島区高松3丁目にある私立豊南高校夜間部普通科の4年生に途中編入。
1969年 3月、豊南高校夜間部を卒業。東は下関に帰ることになり、優作はそのまま部屋を譲り受ける。高校時代からの友人、重井修二とアルバイトに明け暮れる。重井の兄が、岸田森が結成した小演劇グループ「六月劇場」に出入りしていた関係で、TBS「柔道一直線」のエキストラのバイトも経験。優作は岸田に憧れて六月劇場に研究生として入団。裏方修行を積む。
1970年 関東学院大学文学部英文科に入学。いきなり黒澤明監督の自宅を訪れると、三日間座り込んで弟子入りを迫った。しかし、監督に一目会うことも叶わずに断られてしまった。優作は劇団仲間に語った。「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが、有名になっても黒澤監督の映画にだけは決してでんからな。」
 また、優作はこの頃、目の整形手術を受けて二重瞼となった。ただし金がなかったので抜糸は自分で行った。優作は自分のつり上がった一重瞼が嫌いであったのと同時に、ほんのわずかでも自分が目立つ可能性を増やしたかったのであった。
 優作はこの年の秋より新宿のBAR「ロック」でアルバイトを始める。
1971年 3月、重井と優作は文学座を受けるが、二人とも不合格。その後手当たり次第に劇団の試験を受ける。4月、優作は金子信雄の主催する劇団「新演劇人クラブ・マールイ」の演劇教室に生徒として入団。そこで彼より一ヶ月早く入団していた熊本美智子と出会う。出会ってすぐに世田谷区豪徳寺の彼女のアパートで同棲生活が始まった。
 7月、草野大吾の紹介で演出家・江連卓と会う。江連は「さらば滅亡の街よ」という芝居に優作をキャスティングする。
1972年 1月、「さらば滅亡の街よ」は赤坂TBS裏の国際芸術センターで上演された。2月、文学座の役者・村野武範はBAR「ロック」を訪れて、バーテンとして働く優作と出会う。村野は後に、この時の優作の圧倒的な存在感に、「いずれどこからか出てくる男だと感じた」と語っている。優作は来月文学座の試験を受けることを村野に告げた。3月、マールイの卒業公演で優作は「女房を寝取られた亭主の話」に出演。美智子はその恋人役を演じた。この時の演技が認められ、優作はマールイの研究生となった。しかし優作は昨年落ちた文学座を再度受け、今度は合格し文学座付属演技研究所十二期生となった。同期には阿川泰子、高橋洋子、二期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には関東学院大学に中退届けを提出。
 9月、村野は撮影所で顔を会わせた日本テレビのプロデューサー岡田晋吉に、「どこかにいい役者はいないか」声をかけられた。村野はすぐさま自分の四期後輩にあたる松田優作という男の名前を告げた。数日後、岡田は文学座の稽古場をのぞきに行き、ずば抜けた演技力を持つ若者に魅せられた。それが優作だった。
 12月、岡田は自分がプロデュースしている人気番組「太陽にほえろ!」の人気刑事・萩原健一から「番組を降りたい」という申し出を受ける。なんども話し合いを持ったがショーケンの気持ちは変わらなかった。
1973年 2月、岡田はショーケンの跡を継ぐ刑事役に優作の起用を考えた。ただ、レギュラーとして使う前に試しに、「太陽にほえろ!」にゲスト出演させ、スタッフの反応を見た。優作の役は市役所の福祉課の青年の役だった。そしてこの端役を完璧に演じて見せる。
 4月、デビュー前に箔を付けさせるため、東宝の「狼の紋章」の準主役のオーディションを受けさせ、優作は合格。5月に撮影に入った。役どころは主人公と敵対する不良番長。
 7月20日放送の「太陽にほえろ! ジーパン刑事登場!」で優作はブラウン管に現れた。ジーパン刑事こと柴田純役としてレギュラー出演。一気にスターへの道を登りはじめる。
 ただし、芝居への情熱はとどまるところを知らず、「太陽〜」に出演しながらも、昔の劇団仲間と「F企画」という劇団を作った。仲間内で唯一定収入のある優作は、自分の収入を費やして脚本を書き、芝居の稽古をし続けた。また、この頃、日本国籍取得の手続きを取る。
1974年 映画「ともだち」に出演。「竜馬暗殺」では,幕末のテロリストに扮し、憧れの俳優原田芳雄と競演。「あばよダチ公」ではチンピラ4人組のリーダーとして主演をつとめる。「太陽〜」の人気は相変わらずで、視聴率が30%を越える回もあった。一方で優作は、無難で安易な番組づくりに嫌気がさし、「太陽〜」を降板することを考え始める。8月、ついにジーパン刑事の殉職シーンの撮影が行われた。優作はたった3行の脚本を自分なりに練り直し、ドラマ史上に残る名シーン、名セリフを刻みつけて番組を去っていった。
 優作は、この年の10月5日から日本テレビで放送になった「傷だらけの天使」を見る度に、いつか自分もあんな洒落たドラマをやってみたいと思っていた。
1975年 TVドラマ「赤い迷路」「俺たちの勲章」にレギュラー出演。「大都会」にゲスト出演する。7月19日、「俺達の勲章」の鹿児島ロケの打ち上げパーティのあと、勘違いから予備校生ともみ合いとなり、予備校生に全治三ヶ月の重傷を負わせた。優作は怪我をさせた非を詫び、示談が成立。示談金と慰謝料を併せて90万円近くを支払った。
 優作の誕生日である9月21日、熊本美智子と同棲4年目にして結婚。挙式はなく届け出だけだった。その一ヶ月半後の11月6日、優作は右耳が疼き出した。(ちなみに14年後のこの日、優作は亡くなる。)翌日、当時住んでいた小田急線中央林間駅近くの米軍払い下げアパートから、相模大野の北里大学病院へ向かい、診察を受けた。病名は真珠腫というできもので、ほうっておくと神経から脳髄まで転移し、頭が狂ってしまうというものだった。すぐ摘出手術が行われた。
1976年 1月30日警察より、前年の事件に対して「逮捕」という形になるという連絡が入った。優作は自ら出頭し、1週間後に釈放されたが、謹慎を命じられた。
 謹慎後の復帰作として映画「暴力教室」に出演。元々は千葉真一主演の企画だったが、千葉が「脱走遊戯」に主演することになり、千葉の代わりに優作に白羽の矢が当たった。元ボクサーで、教師という役を好演した。また「ひとごろし」では臆病な若侍を主演し,それまでの野性的イメージに軽妙なユーモアが加味された。TVドラマ「さらば浪人」にもゲスト出演。
1977年 映画「人間の証明」に出演。刑事役を演じる。こちらも企画の段階では渡哲也で進んでいたが、渡が人気TVシリーズ「大都会」を抱えていたため、優作に変わった。映画のラストシーンで、岡田茉莉子が崖から身を投げる。それを見届ける優作演じる刑事。優作は佐藤監督に「『母親って何なんだ』というセリフを言わせて欲しい」と申し出る。監督はセリフを言うのと言わないバージョンを2通り撮影したが、結局このセリフは本編からはカットされた。TVでは「大都会パートU」にレギュラー出演。
1978年東映セントラルフィルム第一回作品として作られた「最も危険な遊戯」で一匹狼の殺し屋に扮し、その魅力と演技力を発揮。アクション映画のヒーローとしての地位を確立。続いて「殺人遊戯」にも出演。TVでは「大追跡」の最終回にゲスト出演。
 7月、インビテーションレーベルからファーストアルバム「Uターン」を発売。
 この年の秋、渋谷の大山町の原田芳雄宅の真裏の洋館が空いた、という情報を美智子が優作に伝えた。優作は原田に憧れるあまり、ついに原田邸のとなりに引っ越してしまった。
1979年 映画「乱れからくり」「俺たちに墓はない」に出演。「蘇える金狼」では,昼は平凡なサラリーマン,夜は巨大資本乗っとりを企てる役を見事に演じ大ヒット。TV「あめゆきさん」にも出演。
 8月に初のワンマンドラマ「探偵物語」でTV復帰。それまでとガラリと変わったイメージでアメリカ帰りの私立探偵工藤俊作をユーモラスに演じる。このドラマで後に妻となる熊谷美由紀、生涯の共犯者・脚本家の丸山昇一に出会う。撮影に当たり、探偵事務所は神田にあった同和病院を使用した。(既に解体されてしまったが)このドラマはショーケンの「傷だらけの天使」に憧れた優作の夢が実現したドラマだった。企画段階から深く優作の意思が通され、毎回脚本はあってないようなもの、として撮影されたという。原宿のZEST前で工藤探偵は刺され、以降二度と我々の前には戻らなかった。
 11月「処刑遊戯」に出演,遊戯シリーズ前2作とは全く違うイメージで,全編をハードボイルドで通し好評を得る。
1980年 1月、それまで所属していた六月劇場から独立して、「夢家」という事務所を構えた。
5月1日、インビテーションレーベルからセカンドアルバム「Touch」を発売。4日から全国ツアーに出た。
 映画「レイプハンター/狙われた女」「薔薇の標的」にゲスト出演。また、大藪晴彦原作「野獣死すべし」ではパターン化されたイメージから脱皮するため、8キロ減量し4本の奥歯を抜いた。高い身長がじゃまになり、足の骨を切ることまで考えた。こうして肉体を持たない幽霊のような男・伊達邦彦を創造し、役者としての幅の広さをみせる。
1981年 工藤栄一監督の「ヨコハマBJブルース」、鈴木清順監督の「陽炎座」に出演。特に全存在をかけて打ち込んだ「陽炎座」では鈴木監督から数え切れないほどのことを吸収した。
 この年の3月、夏目漱石の「虞美人草」を向田邦子脚本で演出することとなった。優作は向田の作品に惹かれていたのでOKしたが、向田が台湾の飛行機事故で亡くなり、この話は流れてしまった。
 兄の東によると、この年の秋、美智子と娘の紗綾、そして美由紀との関係に悩んだ優作は自己嫌悪の末に自殺を決意し、バイクで新潟県のどこかわからぬ海岸まで走ったという。数時間立ちつくした末にそこで母の声を聞いたような気がした優作は「自分が死んだら親兄弟が悲しむ上に、紗綾を自分と同じように父親のいない子にしてしまう。死ぬ気になったら何でも出来るはずだ。」と考え直し、死を思いとどまった。10月、優作は美智子と暮らした家を出て、美由紀と恵比寿のマンションで暮らし始める。暮れに離婚届を美智子に送るが、そこには「離婚後も松田姓を名乗るように」との添え書きがあった。娘の姓が変わることを気遣ったのである。
1982年 向田邦子の追悼番組としてTVの単発ドラマ「春が来た」が企画され、主演の桃井かおりの恋人役に優作がキャスティングされた。優作は暴力でも知的でもない平凡な男を演じることで、平凡に演じることの新鮮さを味わった。
 「の・ようなもの」で好評を博した森田芳光監督の手によって、すばる文学賞受賞作「家族ゲーム」が映画化されることとなった。森田は「出演者は全員素人を使いたい」という希望を出していた。1月末のオーディションの段階で家庭教師役は加藤義博に決まったが、観客の動員を考慮し有名俳優によるキャストとすることに変更になった。セントラルアーツの黒澤満のもとに、「家庭教師役に是非優作を」とのオファーが来た。森田の才能に注目していた優作は150万円という破格のギャラにも関わらず引き受け、撮影に入った。他にこの年は「死の断崖」「新・事件/ドクター・ストップ」「ホームスイートホーム」等に出演。
 また、アサヒビールのCMに出演。優作にとってCMは初めてのことだった。
1983年 映画「家族ゲーム」「探偵物語」が公開される。「家族ゲーム」ではキネマ旬報主演男優賞をはじめ、数々の演技賞を受賞した。TVでは「熱帯夜」「断線」「あんちゃん」に出演。
 5月9日、美由紀との間に長男龍平が誕生したのを機に入籍。大晦日の夜、母のかね子が脳卒中で倒れる。優作はすぐさま下関に帰った。
1984年 1月16日の午後、かね子は息を引き取った。優作は仮通夜の時、一晩中母の棺のそばにいたという。
 同月、ディレクターの和田勉はNHKドラマスペシャルで近松門左衛門原作の「女殺油地獄」を撮ることになり、演技がうまく怖い役者を使うことになった。和田は候補者、優作、ショーケン、沢田研二の中から優作を選び、Lady Janeで優作と対面した。和田はその時「なんと優しい表情をした男だ」と思ったという。他にTVドラマ「新・夢千代日記」に出演。
1985年 「家族ゲーム」で組んだ森田監督ともう一度組み、夏目漱石原作「それから」を撮影。「それから」も数々の賞を優作にもたらした。
1986年 「漫画アクション」に連載されていた狩無麻礼原作の「ア・ホーマンス」をもとに丸山昇一が脚本を書いた。常々、日本独自のSF映画を見たいと思っていた優作は「ア・ホーマンス」で金を使わずにSFのニュアンスを出せるか試した。撮影では小池監督が途中で降板、代わって優作が初めてメガホンを握った。主演するだけでなく、他の俳優の演技にも気を配りながらの撮影となった。この映画で石橋凌と競演。石橋率いるA.R.B.は同映画の主題も担当。TVでは「追う男」に出演。
1988年 映画「嵐が丘」「華の乱」と文芸大作にも意欲的に出演し,好評を得る。TVでは単発ドラマ「桜子は微笑う」に出演。ハリウッド映画「ブラックレイン」のオーディションが6月にあり、合格。10月31日より大阪でクラインクイン。
1989年 年始よりニューヨークでのロケに参加。3月、クランクアップ。その後、体調が悪化し入退院を繰り返す。6月に自動車免許取得。それまで出演を拒み続けていた日本テレビの「おしゃれ30-30」に出演。自分の過去を振り返る。また、夏には同じ日本テレビの「華麗なる追跡」に出演し、オリンピック選手だったフローレンスジョイナーと競演。番組の売りは「世界一早く走る女」と「世界一美しく走る男」。
10月ブラックレイン公開。優作は冷酷な悪役に扮し,マイケルダグラス,高倉健ら大物スターに引けを取らない演技を見せ、日本のみならず全米でも大絶賛。以降の全世界に向けての活躍が期待された。なお、この「ブラックレイン」はアメリカ興行のみならず,日本,ヨーロッパと世界的規模のヒット作となった。
 既に病魔に捕まっていた優作だったが、ついに11月6日午後6時45分,膀胱がんのため武蔵野市緑町にある西窪病院にて眠るように「風」になった。享年三十九歳。ここに不思議な符号がいくつかある。彼がLady Janeに残したボトルナンバーは彼の命日と偶然にも同じ116であった。また、彼の友人であり、映画"竜二"で脚本・主演を果たした金子正次も6年前の同じ11月6日に亡くなっている。
 西多摩霊園にある彼の墓には、美由紀さんにより「最も優作らしい言葉」ということで”無”と刻まれた。

Personal data of Yusaku Matsuda

本名同じ
身長185cm
体重70kg
血液型A型
足のサイズ27.5cm
スリーサイズ
好きなお酒バーボン「Old Crow」「Early Times」/焼酎「紅乙女」
好きな煙草晩年はMarlboro(一日3箱は吸っていたとか) 実は最晩年はECHOだった。


TVドラマ「探偵物語」より。


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