「まあ、やるからには一番でしょうねぇ」
「尾崎豊くんと共通してるところあると思うんだけど、友達の中に適当な奴っていうのが割と多かったんですよね。適当に遊んで、会社入って、なんとかなるだろうって。でも、僕らの歳に、いちばんエキサイティングな年代に、もっといろんなことにチャレンジしないと損だと思うんです。」
「この間、佐野さんに会ったんです。レコーディングスタジオに何か用があったらあしくて来てたんです。僕そこで丁度レコーディング中で、人に"晃司、佐野君だよ"って言われて、一瞬"えーっ!"って。もう、すかさず僕が書く予定だった色紙がたまたまあって、それを持って"サインしてください!!"って言ったの(笑)。ところが"僕はそういうんじゃないから・・・"ってテレるんです。僕もテレてたけど、あの人もテレ屋さんですね。黒のスリムのジーパンに黒のガボガボのブーツ履いて、真っ黒の帽子かぶって、髪の毛ピンと結んでるの。ブルース・スプリングスティーンっぽくってカッコ良かったぁ〜!」
Talk with Shinji Harada PATI-PATI 1984/10
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「僕、音にこだわり過ぎるのかなあ。ショーって部分に、変に肩肘張ってるの。お客さんはほとんど聞きに来てるんじゃなくて、観に来てるんじゃないかって。もっと自分が楽しくやれればいいんでしょうね。」
「あいつ(Ozaki)もっとさぁ・・・あいつの好きなようにやればいいと思うよね。まぁあいつは感じ方とか考え方とか生き方みたいなものが僕と違うしね。あいつの場合はどっちかと言うと、世間の大人のやり方とかに反発しながら若い俺たちの愛を育んでいこう・・・というようなそういう奴でしょう?僕の場合はもっと「夢」とかね、あんまり現実に目を向けないような感じで音楽をやってるから。それとね、あいつ僕が正直に「こうした方がいいぜ!」みたいな言い方で喋ると、あいつは権力とか金とかに置きかえちゃうんだよね。なんか人間不信みたいな感じになっちゃってるんじゃないかな、と思った時もあったよ。」
PATIPATI 1985.11月号/ソニー・マガジンズ
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「コンサートに来てくれた奴らが、共感してくれるのもイイし、アイツがこんなことやれるなら、よーし俺も、って思ってくれたらもっとイイ。俺が歌うのは手段じゃない。自分が歌うことで人を感じさせられたら、こんな素敵なことはないなって思う。」
PATIPATI 1985.11月号/ソニー・マガジンズ
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「尾崎は歌うことでコンプレックスを裏返しちゃったみたいなところあると思うんです。それはそれでカッコイイよね。だけど、俺の場合はコンプレックスをいかにかっこよくみせられるかっていうことが絶対必要な作業になってきてる。」
PATIPATI 1986.4月号/ソニー・マガジンズ
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「僕の歌はメッセージソングじゃない。メッセージがあるとしたら生き方だと思う。」
「石橋は叩いて渡るな。むしろ川を泳いで渡れ。」
PATIPAI 1987.6月号/ソニー・マガジンズ
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「そりゃアータ、こういうイイ男は日本に3人しかいないですよ。他の2人?ひとりは有名なやつなら落合(博満)。あの言い切り方はかっこいい。あとひとり・・・・どっかにいるんでしょうね(笑)。」
PATIPAI 1987年末別冊スタイル/ソニー・マガジンズ
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「正義だとかなんだとか言ってても、女の子がヤクザかなんかに絡まれてる時に助けに行ってやられちゃしょうがないんだよね。手段をもたなきゃ。いくらちゃんとした意見持ってて、感性があっても、伝えることが出来なきゃ意味ないんだよね。」
PATIPAI 1987年末別冊スタイル/ソニー・マガジンズ
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「性格なんかも壊したいところいっぱいあるけど、自分にないところは増やしたい。壊したくて増やしたいんだよね。」
PATIPATI 1988.2月号/ソニー・マガジンズ
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「だから憧れっていうんじゃないんだよね。"こういう人に"っていうその"こういう人"が俺にはなかったから、例えば野球見てて、長嶋とか見ててもさ、"なんだ、俺だったらもっと打てるわ!"みたいなさ(笑)。勝手にね。なんにも、リアリティも何もないんだけど、カラ自信の固まり、みたいなトコあったね。それは今でも・・・・そうかも知れない。」
「地位と札束で争う連中の事なんて気にかけたくないね 彼らは自分の城を手に入れる代わりに世界をひっくり返したり 我が物にしたいと思う勇気を犠牲にするからね 権力の座にいるのはどうしようもないすっとこどっこいばっかりで でも だから もっと大きな力を 僕は手に入れたい そんな彼らを葬り去って 本当の想いを伝えるために」
「いつも粘土みたいに原形をとどめないヤツでいたいと思う。粘土の中心にダイヤモンドが入っていてその基本的なダイヤモンドは変わんないんだ。毎日毎日粘土の形がゴチャゴチャ変わる」
「まあ、極端に言えば、歌謡曲って言われようが何だろうがそんなことは関係ねえみたいなね。俺はやりたいことやって−−まあ、それを誰もかっこいいって言ってくんなきゃまたこれは問題ですけどね(笑)。でもやっぱり、そういう固定観念持ってる奴っていうのはさ、やっぱり実際に観たことねえわけじゃん。そこで言われてるのに腹立ててもしょうがないしね。ライヴ観に来て、おめえはやっぱ最低じゃんとか言われたら考えますけどね(笑)。」
[Rockin' On JAPAN] 1989.4.
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「まぁ布袋くんがギター弾く時は僕いないようにしたし、歌入れの時も、まぁ布袋くんの曲の場合は結構違った解釈してる事があったから、そこはこういうメロディーでいってほしいんだけどっていうのはあったけど、後はまぁ自分で歌ったし。スタジオで騒いでる奴とかがいた時はブン殴ってやろうかと思ったけどね(笑)。でもその方が歌がよかったりするんですよね、くっそぉ3回で終わってやろうとかね(笑)。4回は絶対歌わねぇぞみたいな(笑)。」
PATIPATI 1990.4月号/ソニー・マガジンズ
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「自分に背景が必要になってくるよね。口にしたように生きて行かないといけない。」
PATIPATI 1991.5月号/ソニー・マガジンズ
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「なんていうのかな、自分が胸躍るものは絶対抱きしめないと気が済まないんです。だからそれがなんなのかわかんなくても、惹かれたら飛び込まないといられない性格なんで、飛び込んだら底なし沼だった、なんてこともあるんだけど(笑)。計算するより先に足が走っちゃうんですね。これからもずっとそうなんでしょうけど、自分を固めるのが嫌で。」
PATIPATI 1991.5月号/ソニー・マガジンズ
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「吉川晃司っていうのは芸能界みたいなところからロック界に顔を突っ込んで、みたいな言われ方されたりするんだろうけど、でもそれでいいと思うんですよ。やっぱね、芸能って何かって言ったら華だと思うんですよ。それは絶対大事だと思うし、それがね、ロックの硬質な鋼みたいなものとうまい具合に交わっていけばいいんじゃないかなあって。」
PATIPATI 1991.10月号/ソニー・マガジンズ
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「ステージでアガッたことはないんだけど、『笑っていいとも!』とかに出るとアガッちゃう。言葉で自分の意思を人に伝えるのがすごく苦手だから。昔からそう。国語の成績2だったしね。言葉っていうものをあんまり信じてないんだよ。だから電話でしゃべるのがいちばん嫌い。相手がどういう表情でどういう姿勢でいるのかわからないでしょう。だったら手紙の方がいい。テレビってすごく表面的でしょ。2次元でしょ。普通は言葉だけじゃなくて体でもしゃべるじゃない。そういうのがすごく曲って伝わるってのをよく知ってるからね。曲げないようにしようと思うとアガッちゃうんだよ。」
1992.7.14.「TOO MUCH LOVE INTERVIEW」
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「隣の人の顔色見ながら行動を決めたり、渋谷の街で白けたフリなんかしてるより、銀行強盗でもした方が楽しいじゃんって。例えが極端か(笑)。つまりこの世の中、キラキラ瞳の中に星があるみたいな、純粋な夢は持てないかも知れないけど、ダーティな対象でも何か燃えるものがあった方が楽しいし、行動した方が面白いよって言いたかった。もちろん強要する気はないけど。」
PATIPATI 1992.8月号/ソニー・マガジンズ
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「"守れるものは限られてる"って最近思うようにもなった。"まずは守れるものを守って、余裕ができたらたくさん守れるものを作っていこう"って思うようになった。"守るべきものをもっと大事にしろ"っていうのを歌いたかった。でも、他人にそういうことを強要するのは嫌いだから、自分に歌って自分を盛り上げる、っていう感じなんだけどね。」
「昨日もBuck-Tickの連中とかとそういうツェッペリンの話とかしてて、なんかみんなベロベロになってきた時に突っ込んだわけよ俺。"フィジカルグラフィティが好きなの?どこが好きなわけ?"って・・・。でも大して分かんないんだよねみんなそんなに(笑)。でもそう言ってるとなんかこう高尚な感じがするっていうか、自分に凄く知的な香りを出したい、みたいなとこはあるのかも知れないけど。ま、実際そういうのを好きな人はいると思うけど、でもやっぱり僕は"天国への階段"とかの方が好きだし。。」
「僕はそんなに男が情けないとは思ってないけど、流行ってる歌を聴いてると、そんなような男が登場するし。それはねえ、"自分をさらけ出す"ってこととは違うような気がしてね。俺は"だったら逆の行動をとっちゃお"って思うタチでね(笑)。昔からそうなんだよね。俺。アイドルで出ればアイドルじゃないような立ち回りしかしないし(笑)。表向きが変わっても多少はいいと思うんだ。やっぱり人や世の中は変化するものだから・・・。でもメンタルな部分までコロコロ変わっちゃうとね、それは"なんで!?"って感じになる。なぜもっと自分を大事にしないんだろう?って思う。"日本人である"って意識とかさ。」
「すごく裏腹なんだけど、みんなをまとめてバンドでいこうってことは、同時に、一人で行こうってこともいみしている。がんがん、自分を追い込んでいかなければならない。そうするとバンドも逆にまとまるんじゃないかって、最近、気が付いたんだよね。布袋君なんかはそういうのをBOφWYの時に気が付いたんだろうね。なるほどなあと思った。」
PATIPATI 1993.9月号/ソニー・マガジンズ
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「単純に、人としてこれはおかしいんじゃないのっていう部分に反応していただけかも知れない。毎週毎週、生でテレビに出ていると、話題がなくなってきて、放送作家が話を作ることもあるんだよね。でも、そこに合わせるのは嫌だと。人として、俺を汚すなっていうのはいつも思っていた。そっちにとっては当たり前のことでも、俺にとっては自分の生き様に関わる大事なことなんだよって。この歳になればうまく対応できるようになるけど、その当時はドッカーンと爆発して暴れまわって、走りまわるしかすべがなかった。」
PATIPATI 1993.9月号/ソニー・マガジンズ
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「"朱に交わったら黒くなれ"って、赤だけにはなっちゃダメっていう考え方だから、しょうがないんだよね。テレビの枠に入れって言われたら、映りたくなくなっちゃうっていう(笑)。」
PATIPATI 1993.9月号/ソニー・マガジンズ
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「当時、黒柳(徹子)さんにもよく怒られた。『ザ・ベストテン』の打ち合わせのときに、「あなた、いつもメイクしてるから今日はメイクの話をします」って言うから「わかりました」って言って、顔半分を真っ黒に塗って生放送に出たら、あとで呼ばれて「何?あの顔?」って。「いや、メイクですよ」って言ったらまた怒られた。「ふざけてるの?」って(笑)。こっちはいたって真面目だったんだけどね。」
「ちょっと不器用にいきたいって事だと思うんですね。あんまり器用なヤツにはなりたくないし。何かを得るために自分なりの哲学ってあると思うんですよ。田舎の引っこ抜いたレンコンみたいなもんだと思うんですけど、雑で田舎臭くて、汚くて。まあ言い方変えれば広島人魂っていうか(笑)。”東京に何年いようと広島人魂は捨てねえぞ”みたいな。」
PATIPATI 1994.3月号/ソニー・マガジンズ
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「日本の教育システムって、要するにオリジナリティを殺すところから始まるわけでしょ?だから、ちっちゃいときから、なんか変わり者扱いされていましたね。社会に出ても、いまだに一緒じゃないですか。まぁ、すごく自由なシチュエーションの中にいるとしてもですよ?やっぱりいろんな人たちに気ぃ使いながら生きてることは確かなわけで。もう俺なんて"常識ない"って言われっぱなし(笑)。例えばなんらかの壁があるとしますよね?俺、それを壊す作業がすごく好きなんですよ。だから、あえて自分で枠を作ることもあるかも知れません。なんか、それに対してこう、ガーッともがいて暴れてる感じっつうか。そういう自分を見るのが好きなのかも知れない。」
「武道館と言ってもそんなにはピンと来なかったよね。「いやあもう武道館、武道館っていう時代じゃないでしょう」なんて、粋がって、馬鹿なはったりを言ったことや、ステージ上から降りちゃいけないって言われてたのに、いけないと言われると逆に降りたくなって、降りてしまった事が重なって、武道館、2年間使用禁止なんてこともあった。」
PATIPATI 1997.10月号/ソニー・マガジンズ
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「バラードばっかり歌うのはヤだね。それって俺の中では格好悪いことだから。気持ち的には、クソじじいになってもナイフを振り回して走ってるようなヤツになりたい。世の中の道理なんてわからないままでいたいし。」
「どっかでゴールなんかなくたっていいと思ってるところもあるんだけど。鮫とかマグロとかと一緒で、止まると死ぬんじゃないかと思うんだよ。俺はそんな感じかな。」
「音楽って全部持ってるんだよね。別に文献を読んだり、人の立派な話を聞かなくても、救ってくれたり、ある時はすごい体温を上げてくれたり、泣かせてくれたり、全ての脳につく形容詞っていうか、全部増幅させてくれる。ある時はネガティブなものは溶かしてくれるドラえもんのポケットみたいなもんだと思うんだよね。で、人間っておかしいもんで、泣きたい時にはバラードかけちゃうし。」
「尾崎はもういないしね。勝手に死んじゃうからね。大沢さんも途中から引っ込んじゃったし。岡村も世捨て人みたいだし。今は一緒に遊ぶのは学生の時の同級生ばっかりだね。それはそれで気兼ねがなくていいんだけど。」
「かっこいい言い方しちゃうと、人生というダイスを転がして自分を遊ぶ、っていうのが僕にとっての永遠のテーマなんだよね。」
Hot Rod Man Concert Tour 1999
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「訊きたかったことは何も訊かずに彼女を見送った。別れ際、カードのようなものを寄越し、路地に溜まった水たまりを弾きながら、彼女は通りの向こうに消えた。近親相姦だけは避けたことと、ややこしいことが続かないことに安心したが、なんだか寂しい気もした。彼女から渡されたカードを開いてみた。「あなたはとっても尾行がヘタ!!だから歌でも歌ってなさい」なんてこった。やっぱりまた失業だ。」
「非常に緻密な脚本だけど、この主役は例えば野村宏伸みたいなタイプじゃないかと感じたんです。そんな感想をもらしたところ、[僕が撮るからには、そうはなりません]と。とにかくお互いのサムライ・スピリッツみたいな部分で共感したので、お任せする気になりました。」
「(三池監督とは)3本やったら喧嘩別れでしょう(笑)。あくまで本業はミュージシャンだし、生のステージを越えるエクスタシーはないけれど、瞬間瞬間の反応があるライブに比べると、映画は後からジワジワくるものではないかと。贅沢を言わせていただければ、今後はその両方をやっていければ素晴らしいと思います。」
Winter Greetings 2002.1.10.
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「毎日が007みたいな感じだったんで、外から死角になっているマンションのベランダからロープで降りて、バイクに跨ってって言う。それでもまだ見つかったりしたら、都内の一方通行とか、ワゴン車が通れない天井の低いトンネルとか、出口が二カ所ある駐車場とか、いろいろ下見して、見つけては彼らをブロックしてました。だから普通の恋愛はできなかったかも知れないけど、普通の人が絶対やれない恋愛がそこにはありましたね。」
「精神状態の良くない時期に支えになってくれたのは、やっぱり好きだった女性ですよね。酒瓶を持って出ていったきり俺が帰ってこないんで、彼女が探しに来たら、公園でルンペンのおじちゃんと一緒に寝てたとかね。もう〜とか言われながらも、面倒を見てもらったりしましたね。道で寝ちゃったこともあったし。そう言えば、尾崎ともよくそれはやりましたね。西麻布のバーの前のゴミ袋の上に二人で寝ちゃったらしくて、そこ、バス停もあったから、朝、通学途中の女子高生に起こされるの。「吉川さん、尾崎さん、格好悪いですよ」って(笑)」
「こういう時代だからこそ、昔のアメ車みたいな生き方もいいんじゃないかって。みんな、燃費がどうのとか言ってどんどんこぢんまりしてきちゃっている。もうドカスカ煙を吐きながら走ったり、道がないのに走ってたり、走りながらボコッと部品が落っこってきちゃうような、いびつな面白い奴になろうよってことですね。空気抵抗的には無駄なフォルムでも、その余分な部分のこだわりが個性だし、綺麗だし、味だし。」
「洋楽に憧れてしまったっていう悲しい性、いや嬉しい性、そういうものが染みついているから、変えようがないですよね、僕の場合は。例えば僕らより前の世代で言うと大沢誉志幸、佐野元春、サザンオールスターズがいるじゃないですか。その3者を比べると、洋学的センスが一番多かったのは大沢さんですよね。佐野さんはメッセージ色が強くて、語り部的なところで、その言葉が残っていると。日本人的なものということで言えば、圧倒的にサザン。あれは演歌にも通じる、歌謡曲だし、一番日本ぽい味付けだから。若いうちは憧れで行けちゃう場所へも、それなりの年齢になってくると、一般的に生きてる場合、行けなくなってくる。現実が占める割合が激増していく。結局、見たとおりの結果になるのは当たり前でね。」
Pandora Interview 2002.5.
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「役をやることによって、改めて思った事があって。人間って世の中を都合よく生きる為に表向き用に作ることがいっぱいあって。川が流れたら、下水道も流れてるんだけど、自分が流した下水道は絶対人に見せないようにするでしょう。そういう所で二重、三重の構造が出てきて、世の中に順応しやすいように上手く自分を隠すんですよね。自分の中には下水道が流れていないような錯覚をわざと自分の中に作って逃れていく、みたいな。でもそんなんくだらないんだよと言ってしまえば人間なんて汚らしい生き物で、獣の方がよっぽどきれいじゃないのって。全部さらけだしてみたら、その瞬間が一番美しいんじゃないかなって。だから体で体を浄化しなさいよみたいな。」
Interview File Cast 2002.9.10./ジョイフルタウン(月刊にいがたタウン情報編集部)
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「丁度ドラマを演ってる頃、個人的に酷い目に遭ってね。うーん、それは本当に僕の中で、人生最大の痛手だったんですよ。まぁ裏切り系ですかね。普通の裏切りとはまたちょっと意味が違ってさ。人間の表と裏=本音と建て前の違う、そんなものをまざまざと見せられちゃったというさぁ。本当にこれはね、ここが(胸に手を当てて)ぶっ壊れそうなくらいの傷を僕は受けましたね。それを見たってことが結果的にこのアルバムのエネルギーになってくれたと思うんですけどね。」
Interview File Cast 2002.9.10./ジョイフルタウン(月刊にいがたタウン情報編集部)
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「僕にとってみれば人生は勝負ごとでしかないんですよ。言うならば、自分との勝負ですよね。敵が何処にいるかって言ったら、"てめぇ"ですよ。いつも「お前はこういう風に生きるんだぜ!」って決めた17歳の頃の自分と喧嘩してるだけですから。逆らわなきゃつまらないっていうか、往生際の悪い奴でいたいってことですよ。」
Hyper Pop Beat Deluxe 2002.10.1.
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「年齢を重ねると、大人になるものなのかも知れないけれど、僕は大人って言葉は大嫌いなんですよ。"大人しい"という言葉も"大人"という単語を使うじゃないですか。諦めることが大人になることなら、すごくつまらないなと。"大人になれよ"と言われると、"もう諦めろよ"って言われてる気がして、大きなお世話だよって。人から見たら成長してないと思われるかも知れない、子供じみてていいじゃん、バカで大いに結構って(笑)。」
「(松田優作さんとは)ちゃんとお会いしたことはないんですよ。でもコンサートには何度か来ていただいたことはあったんですけど。アンコール前に帰ってしまうっていうか。よくスタッフが言ってましたよ。「トレンチ羽織ってアンコール前にトレンチ翻してクールに帰っていきました!」って。よく優作さんのお話は伺っていたし。優作さんも何か「あいつはずっと役者をやればいいのにな」って丸山(昇一)さんには言って下さっていたことがあったみたいだったから・・・。」
Concert Tour 2003 Love Jellyfish
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「な?見たとおりの事さ。考えるな、感じるのさ。もうひとつ上の世界へ浮上してみるかい?別の住人達が多分、大して変わらない事をやってる。何故かって?当たり前さ、ヤツらも昔海から這い上がったからさ。ただ、「愛する」なんて混乱の原因も創造したけどな。悪くない事もあるんだろう。さ、上がるぞ。」
「20周年ってことになると、みんなベストを出したりするじゃない?それはイヤだなと思ったんだよね。集大成みたいなことを言われちゃったり、やっちゃったりするのがイヤだった。懐かしのアルバムを紐解くみたいなことはライヴでやればいい。もしベスト的なものを出すならば、リアレンジしたりとか、何かして出したいなと。」
「やっぱり人間にとって一番大事なものって、愛と夢なんだよね。その言葉がつまんないものみたいになっちゃているのは、きっと人間の方が悪いんじゃないかと思う。でも僕は大手を振って、言い続けたいよね。森田健作が出ていた『俺は男だ!』とか、そういうドラマがあったじゃない?ああいう世界は普遍的であるべきだと思う。僕はドン・キホーテは大好きだから。50になっても、60になっても「人生で大事なものは愛と夢」って言い続けていられたら、きっとまずまずの人生なんじゃないかなと思っている。」
音楽専科SOUND PEOPLE第12号 SHOXX 2004.3月号増刊
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「どんどん自分の小さい城を作るでしょ。そういうのはいらないですよね。だったら、自分で大汗かきながら、恥をかきながら、緊張したいなって。そういう事が大人になると減るじゃないですか。ヘンなプライドとか、ヘンなプロテクターをして。着ぶくれて。でも、俺は歳を取るごとに脱いでいきたいですね、そういうものを。風上にたって「へへん!」と言ってるオトナはカッコいいんですよ。で、いろんな無念を知るじゃないですか。どうにもならない事、無念をたくさん知ってるのに、口笛を吹いているようなオッサンは、カッコいいんですよね。俺もそうなりたいと思って。」
「最近、妙に整理整頓された小さい器のヤツが多すぎるような気がするんだよね。それは音楽に限らずもっとざっくりいこうよっていう感じかな。穴が空いていようが、ひび割れていようが、器はデカイ方がいいんじゃない?って。ちまちま磨くなという感じだね。「すいません、水漏れてますけど」って言われたら「いいの、それは。無駄な水は流せばいい。喉が渇いたヤツでいた方がいいじゃない?」って。」
Tokyo HeadLine 2004.6.23.
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「ネパールは埃だらけで、歩いてるだけで鼻の中まっ黒になるけど、その砂埃の中に、人間の誇りもまだあるって感じがすごくしたね。日本はその逆で、街から埃がなくなった分、人間からも誇りがなくなってしまった。まあ、それはこじつけ過ぎかもしれないけど、そう思うことによって自分を諌められればいいじゃないかと思うよね」
「謙虚にものを創っていきたい。でも貪欲でもありたい。地位や名声なんてクソくらえっていうのは思っている。そんなの、何になるんだろうって。物欲や地位にしがみついて生きてる連中っているでしょ。自分の背中を鏡で見たことあるのかな、このオッサンって思ってしまうよね。デッカイ事がやりたいよね。デッカイ事と言っても高層ビルを建てるとかそういう事ではなくて、もし建てるならば、平屋だしね(笑)。セナなんかブラジルの孤児達にすごく貢献してきたじゃない?ああやって夢を売って、子供達を勇気づけたりして、大きな人間だなって思うよね。自分も大きな人間になれたらいいなって思っている。最大の目標はひょっとしたら、そういう事かも知れないな。」
Official HP K2 necast 2004.7.6.
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(天海祐希との熱愛報道受けて)「いつも僕を応援してくれている皆さんへ
まあ、そういう事ですので、これからもよろしくお願いします。(愛をこめて)
吉川晃司」
Innocent Spirit 2004.8.18./ソニー・マガジンズ
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「俺は死ぬまで「竹槍で戦車が倒せる」と思ってる人間だからさ。100年前に生まれても、1000年前に生まれてもそうなんじゃないの。だってしょうがないじゃん、それが「ザッツマイライフ」なんだから。だから音楽だけでその闘いをできるように早くなれよって自分で思ってた。」
Innocent Spirit 2004.8.18./ソニー・マガジンズ
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「映画のクランクイン直後。いちばん最初のシーンで、一番最初の撮影で、ここ、泳がされたんだよ(笑)。実際にスクリーンで観たときにさ、なんてバカなんだと思ったんだけどさ(笑)。だって"んなわきゃないだろ!"って話じゃない、要するに。しかもなぜいちばん疲れるバタフライで泳ぐかっていう。そういう無駄さ加減がいいというかね、バカさ加減が、自分にはありだなぁと思ったんだよね。」
Innocent Spirit 2004.8.18./ソニー・マガジンズ
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「男子たるもの、何か背負わなきゃダメって感じするじゃない?世代的にもね、人生はツラいものであるべきかなと。要するに、"生きてるってことはツラいこと"っていうふうに考えるならば、ツラくないってことは、"生きてない"ともいえるわけですよ。なんかねえ・・・イヤなんですよ、自分に置き換えても。背負ってる感じカッコいいじゃないすか。そういうちょっと憧れに近いとこあるじゃないすか。デビルマンなんかかなりツラいわけよ、自分たちの一族を裏切った人間の味方してるわけだからさ。そこがカッコいいなと(笑)。」
「とにかく汚いこと、曲がったことが大嫌いだから。そういうことに対する怒りによって、走ってきたという部分はあると思う。もしも人間が汚いことをやるために生まれてきたとするならば、人間は滅亡した方がいいんじゃないかと思う。」
「(セルフカバーアルバム発売にあたり)賛否は当然あると思いますが、とにかく吉川がこの20年間で手に入れたもの、養ったもの、ついた知恵を、全部使いました。最近の曲に関しては、あまりアレンジを変えるのもどうかな、というのと、変えようがないぐらい構築されているなっていうのがあったんで、パッと見はあまり変わってないんですが、実はリズム隊の部分では、全然違うという。音楽玄人というか、そういう(音に)うるさい連中も楽しめて、ま、幅広いっていう感じで出来たんじゃないかと思ってます。まあ、20年経ったらこういう歌い方で歌うようになるのかって、そこが一番ですけどね。楽しんでもらえたら嬉しいと思います。」
「これまで通り、損得勘定なんかは考えないつもりですが(芸能界の)戦いに勝ち抜いていくには組織が必要。それにはコメ蔵もいる。よく練った作戦を実行していかないと。これまではお金への執着心があまりにもなさ過ぎた(笑)。」
「30過ぎてからじゃないかな。それまでは試行錯誤だったね。もちろん今も試行錯誤してるけど、デビューのころは今と違う見え方してたと思う。基本的にはさ、音楽が好きで曲を作って歌っているわけだけど、それ以前に一人の男としてどう生きるのかっていうほうが大事だからね。やっぱり、田舎から東京に出てくるときに持ってた気持ちが、俗世間の風に汚されたんじゃつまんないわけで。だから出稼ぎみたいな気持ちでいるし、東京に根を生やそうとは思わないね。何を手に入れたかっていうのも大事ですけど、どう生きてきたか……死ぬときに自分はどう生きたかっていうのが大事だと思う。これまで自分を欺くこととか、あまりしなくて済んでこれたんでね、これからもそう生きたいなって思います。」
「音楽専科Sound People」2004年12号
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「映画は主人公を殺していただいたんですよ。会社としてはずっとあの映画作りたかったらしいんですけど。丸山昇一さんが脚本で、旅館に毎晩遊びに行って『こういう話にしてくれ』って言って。で、事務所の社長には全然違う台本渡したりしてくれて。丸山さんはずっと松田優作の映画をやってた人で、すごく自分の気持ちをわかってくれるというか。『よし、吉川、ちょっと悪さやろうぜ!』っていう感じで、別な台本用意して(笑)。」
「孤独みたいなことに関してはとっくに受け入れて慣れてるっていうか、こういう職業をしてる人は多かれ少なかれある訳だから、黙ってても出るんじゃないかな。映画評論家の人に「孤独が背中にくっついてて、いい表情でしたよ」って言われたんだけど、何もやってない、普通のまま(笑)。俺が思うに役者さんって、芝居が上手い下手という事も大事だけど、人生経験をたくさんしていて、引き出しをたくさん持ってるかどうかの方が大きいと思う。パッと見た時に、リアリティがあるかないか、嘘っぽいか、真実みがあるか、その差なんじゃないかな。」
「一言で言えばザッツマイライフだよね。そう言える歌詞にしなきゃなっていうのは思っていた。今回はツアーをやったりプロモーションをやったり映画に入ったりしていて、かなりグチャグチャな中で曲を作ってきたんだけど、その混沌の中のある瞬間にフッと集中することが出来たんだよね。そしたら降りてきたみたいな。おばあちゃんが火事の時に重いタンスを持ち上げちゃったというのに近いかも知れない(笑)」
「いつもどこかは壊れている(笑)。水泳選手なんかもそうなんだよね。みんな、軟骨がおかしくなっている。水の中で変な動きをするでしょ。体の生理に反した動きをするもんだから、体にしわ寄せがくる。自分のステージも体の生理に反していたりするんだよね。上半身と下半身の動きが逆だったり。だから軟骨の摩耗が普通の人より激しい。それで関節とか、色んなところが痛くなる。ライヴが終わって、イテテッて言ってると、メンバーにどこか悪いんじゃないのって言われたりしている。ただし体は痛くなっても、ステージに立つことは自分にとって、とても健康的なことだと思っているけれどね。」
「北方(謙三)さんとはよく飲んでいる。先日も北方さんと大沢(在昌)さんと新宿で飲んだんだけど、あの人たちは言葉の武器を自分の物にしているよね。そういうのに触れていると、刺激を受ける。言葉を持たないのは本当にまずいなって思う。今の時代においては、腕力が強いとか、武術が強いということよりも、言葉という武器をいかにうまく使うかの方が大きい訳で。」
「今まで、それなりに恋愛はしてきたよ。ひどい失恋もあったし、たくさん痛手も受けたし、人を傷つけたこともあった。女性というのは、男性が自分に対してどれだけやってくれたかということが物差しになりがちだから、例えば俺が曲作りに煮詰まって3カ月もどこかにひとりでこもることを信じてくれなかったりする。そういう部分で男と女は、なかなかわかり合えないね。」
「只今6月1日深夜2時。スタジオのセッティングをそろそろ始めて月半ばから制作活動に入るぞい皆の衆!さあ〜て何味のナニモノ作ろうかなあ〜ここんとこ登山の真似事やってきたから足腰はレベルアップしたんじゃねーのかなっていう自負ちょいとありなので、リズムリフもので押してみようかの〜、いやいや文壇様方とのセッションもそれなりにやったじゃねーか。ほな詩先初挑戦でやってみるのもええのう〜なーーんてね。(中略)毎日毎日怒ってるもんだから最近白髪が増えたのう〜〜〜めざせ筑紫哲也!あはは。」
「俺は18歳で芸能界に入ってるから、最初のころはわけが分からなかった。大人にかこまれて何がなんだか分からないまま金を掴んじゃうわけで、それこそ尾崎豊とふたりで、「もう大人には騙されねー」とか、そんな話ばかりしてた。扱いにくいガキだったと思うよ。でもそれって、大人になる途中で誰でも通る道じゃない。たまたま俺は人より少し早く経験しただけで、今となっては不幸だったと思わないし、「吉川さんて、よく見ると天真爛漫な顔してる」と言われることもよくある。田舎ですくすく育っちゃったから、本当はそうなのかもしれない。いろいろあって人を信じなくなった時期もあったけど、基本は人が好きだし、すごい信じてるから。」
「クリスマスの思い出は、と聞かれて俺が思い出すのは1989年の12月かな。冷戦構造の象徴だったベルリンの壁が崩壊した年で、11月9日、俺はそのニュースをレコーディング中のスタジオで聞いたんだ。ちょうど詞を書いてるところだったんだけど、ニュースを聞いたら吹っ飛んじゃったね。「ベルリン行かなきゃ!」。こういうことに詳しいのは誰かな、って思い出したのは、カメラマンのハービーちゃん(ハービー・山口さん)。さっそく電話したら「ちょうどベルリンから帰ってきた」って言うんだよ。「うそっ!俺、ベルリン行きたいんだけど!」「じゃあ、もう1回行きますか。僕も消化不良だったんで…」「行く!行く!」。それで冬のベルリン行きが決まったわけだ。
(中略) ベルリンの壁に行ったのは25日だったと思う。そりゃもうすごかったよ。うわーっって人が集まってる。すでに壁のカケラも売られてるんだけど、買うのもなぁと思ってツルハシ借りたんだけど、ツルハシ借りるのにもお金がかかる(笑)。それで壁をガンガンやるんだけど、これがなかなか削れなくて、1時間くらいかけてポーンとカケラを落とすと、落ちたそばから誰かに持ってかれちゃうの。もうむちゃくちゃだったね。夜にまた行くと、ものすごい人出でみんなバンザーイだよ。バンドも入ってもうめちゃめちゃのお祭り騒ぎ。初詣の明治神宮の100倍は人がいるんじゃねぇか、どうなってるんだこれは、って感じ。ネオナチの連中も集まってバンザーイってやるもんだから、そこここでいざこざが起きたりしていたけど、人々の熱気にはすごいものがあった。」
「2月の武道館が終わってから、表に出たのは夏のライヴと今度のライヴくらいなので、みんな、一体何をやっているんだろうって思ってるかも知れないけれど、この先自分がやりたいと思っていることをやる為の土台作り、道筋づくりをやっていたんだよね。ここでやっておかないと、なかなか出来ないなって。25周年まで何をやっていくかということまで、計算しながらやっている。若い頃の行き当たりばったりの行動は美しいけれど、ある年齢になってからはそれだけでは越えていけない事も出てくるんだよね。時間をかけて準備したからこそ、達成出来る事がある。」
「年を取ることを受け入れつつ、それでもバカなことはやめずに挑み続けるためには、自分を飽きさせないことが肝心だね、モチベーションの維持ね。例えば、昨年末に出した恋愛小説だってそうだよ。ファンの皆さん(特に男性諸君)の中には、“恋愛小説なんてなにやってんだよ、コイツ”って思った人も少なくはないと思うが、あれは俺の気持ちのあり方が移行したわけではなく、むしろ、今までと同じように戦っていくために、似合わないながらも、愛とか優しさについてまともに向き合って考えることが、少しでも自分の底を深くするために必要なことだと思ったんだよ。でもまあ、単純に「吉川は相変わらずバカなことやってんなぁ」って見えてればいいのさ。「いつまで経っても落ち着かないねぇ、いつまでやってんのかねぇ」なんて、いつまでも言われ続けることが大切だと考えている。 」
「俺の通ってた高校はバイクを許可しなかったけど、免許は学校にちょっとした嘘をついて取った。もう東京に行くことが決まってたから、「オーディションを受けるのに免許が必要みたいなんですよ」って(笑)。とにかくうれしくて、よくひとりで海岸通りを走ってたね。呉のほうまで行くんだけど、広島って暴走族が多いから追っかけられたりして大変だったよ。こっちはひとりだから、金剛山ってとこまで一気に逃げて、1本道を頂上までぶわーっと走ってすぐにUターンして撒いたりした。でも仲良くなったヤツもいて、「お前、今度こっちで困ったことがあったらワシに声かけろ」って、ヤクザかお前は! みたいなこと言うの。まあ、根はいいやつらが多かったんだと思うよ。」
「俺の場合は田舎もん根性というより“俺根性”と言った方が合ってるかもしれないね。『川の流れのように』って歌があるけど、うまく流れていく賢明さは俺にはなくて、俺の中で正しいことを踏み外したくないという頑固な思いがある。「バレなきゃいい」とか「権力との兼ね合いで…」とか、そういうことには断じて屈しないと。青少年の頃に「大人になれば分かる」みたいなことを言われて傷ついたこともあったから、余計に“曲げられない根性”が強くなったのかもしれないね。 」
「ポンタさんとは、後藤次利さんとスリーピースをやった時に、「このガキがっ」て思われながら?もやれるとこでは勝負しますよって俺が突っ走ったことがあったから、俺の言うことも受け入れてくれたんだと思う。だからやっぱり人間関係だな。幸いにも俺の周りにはそうやって頑固ジジイ?になった人がいっぱいいて、尊敬してる人に叱られたら、「チクショー!」って思いながらこんな俺でも素直になる。だから、たまには自分より速い人と走らなきゃいかんってことだね。毎日毎日コツコツ努力するなんて、人間なかなか出来ることじゃないから。 」
「俺が親父に初めて喧嘩で勝ったのは18歳のときだったかな。大喧嘩して、初めて親父が目の前で転んだ時には「やっと勝ったぜえーいっ!」って思ったけれど、同時に無性に寂しくもなって、なんだか二人して押し黙っちまった。それから二人揃って夜中に親父の知り合いの病院で怪我したところを縫われながら「このバカ親子っ!」って医者に説教されたというオチがあるけど、そんな時がいずれ俺にもくるとしたら、歳いっても強くて怖い頑固父親でいられるかどうか、う〜ん、微妙だなー(笑)。こりゃあ〜せっせと体鍛え続けておかないと。さあてと、今日から、筋トレ追加しよっと。 」
蘭心竹生 路地裏ダイヤモンド2006年10月24日
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「清洲橋が見える川沿いの遊歩道には、以前はダンボールハウスに住んでる人がちらほらいて、皆さんも釣り糸垂らしてて。大漁の際には開いて干物にしたり一斗缶使って薫製にしたりで上手に保存食作ってるんだな。酒瓶土産に持って酒宴に交ぜてもらったりしたこともあったなあ。夜釣りしながら一緒に一杯!とかね。「リストラされて、かあちゃんと子供が出ていっちゃってねえ〜」なんて切ない話をしてくれた親爺さんと一緒に銀杏炒ったこともあったな。ハウスの中が「図書館かよっ!」なんて学者みたいな爺さんがいたりね。ちょっと辛い状況とか心境に在る事以外はなんら“違う”人たちじゃないわけで、そこに遊びに行くのか?っとまあ普通はお思いでしょうが、はて、例えば、高級スーツを身にまとい摩天楼を奔走してる姿のほうが人間らしいのか?と問うてみれば、その実、裏側はのぞいてみなければ、けっこうわからないものやもしれませぬ。 」
「今自分が言いたいことを一番象徴しくれる言葉は何だろうって思った時に、ターザンという言葉が出てきた。前号のK2でも話したと思うけれど、まず最初にスパイダーマンが摩天楼の間を蜘蛛の糸を飛ばしながら駆け抜けていく映像のイメージが浮かんできたんだよ。で、スパイダーマンって現在のターザンみたいだなって思ったのがきっかけだね。ターザンってワクワクする存在じゃない?今の時代に対するアンチテーゼの象徴みたいなニュアンスも込めている。」
「俺は動物園は嫌いなんだよ。但し動物園のスタッフの皆さんがやっているのは素晴らしい仕事だと思うし、大変だろうなと思う。飼育するという仕事を否定するつもりは全く無いけれど、そもそも動物園というシステムが苦手というか。結局、動物を人間がさらし者にしている場所だったりする訳でしょ。もし「動物園を好きにしていいよ」って言われたら、全部逃がしたいくらいだよね。」
「低いところから高いところまで登っていかないと、本当の意味での数奇な景色を"見る"ことは出来ない。今後もきっと山も谷もあるだろうけれど、でこぼこの人生でいいんじゃないかな。遠回りに見えることが実は近道だったりすることが多いということも最近、わかってきた。近道を行こうとするヤツは結局、もとの道がわからなくなって、迷ったりするんじゃないかなって。近道をしようとする心づもりが芽生えた時点で、すでにどこか負けているということなんだと思う。それに遠回りしている間に経験することも大事だって、だんだん分かってくるんだよ。遠回りしたからこそ、見えてくるものがある。だから次に岐路に立たされたときに、「近道と遠回り、どっちを選ぶ?」って言われたら、遠回りを選びたい。」
2009.7.28.公式HP K2 Net Cast
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「見事に生きた奴は滅多にいない!川村カオリが逝ってしまった。あんな病状でアルバムを完成させ、もっと苦しい中で渋公ライブもやり遂げた。歌いたい事が山ほど増えた!まだ歌えるんだ!娘に見せるんだ!って、反則だよそれ。撃ち抜かれちゃって、木っ端微塵よ。本当は怖かったろうに、痛かったろうに。止めてやれれば、まだ近くに居たかもしれない。デッカいステージだって、造ってやれなくてゴメン。だったけれど、仲間達、皆それぞれ、してやれること精一杯やったからな。これからも、伝えてゆくよ。おまえに本物の勇気見せられちまったからには、俺達も明日から今まで以上に笑顔作って頑張らな、格好悪いね。やっぱ、うまく書けねぇけど。川村カオリ。永久の同志。君の生き様、見事だった!知ってる奴は、絶対に忘れない。」
「業界の人間の中には、「大河ドラマに出演した後に仮面ライダーに出演するのは普通はあり得ないですよ」って言う人もいたけど、何を言ってるんだって思った。格が落ちるっていう。格ってそういうものじゃないと思うし、そんなことで落ちる格なら最初から俺はいらない。大切なのは志と信念があるかどうかだから。」
(IZA 2011/1/7)http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/movie/481766/
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「子供たちには『失敗なんか恐れるな』と言いたい。夢がすべて破れても、失敗や挫折で心に傷ができても、いつかはかさぶたができる。それが仮面だ。君の父さんも母さんも仮面ライダーなんだ。」
「これからの日本では、個々が決断を迫られる場面が圧倒的に増える。わからないなりにも決めていかなきゃしょうがない。例え間違った決断だったとしても、迷っているよりましとしてね。決断して、失敗したら、教訓にしていけばいい。」
「(自分は)要は平和な時期にはあまり必要ないタイプの人間。どっちかと言うと、混沌とした時、殺伐とした時の方が利用価値が高くなるタイプの生き物なんだろうなって。高校の頃からよく言われてました。「戦国時代に生まれればよかったのに」って(笑)。きっとそういう時の方が自分の特性が活かされるタイプなんだろうと自分でも思ってます。秀吉さんなのか、家康さんなのか、信長さんなのかっていったら、やっぱり信長さんに近い。座禅を組んでいろと言われるよりもずっと走ってろって言われた方がはるかにいい。」
「あの2日間のステージは俺たちがどうのこうのではなくて、お客さんが作ってくれたものだなと感じました。極端な言い方をすると、ステージに立つ時にはCOMPLEXのことはすっかり飛んでしまっていたんですよ。きっと布袋さんもそうだったんじゃないかな。リハーサルの途中の段階まではミュージシャンとしての各々のこだわりがあり、その違いがCOMPLEXのおもしろさにも繋がっていたと思うんですが、今回はそんなことよりもっと大きなテーマがありましたから。」
「メディアが伝える震災に関する報道の量も減ってきているし、関心が薄れてきていると感じることもあるんですよ。先日も石巻に行ってきたんですが、ボランティアが震災数週間後と比べると、10分の1もいなくて驚きました。確かに街の主要部分の瓦礫は撤去されてますけど、いまだに体育館に避難されたままの被災者さんもいる。阪神淡路大震災の時に「忘れ去られるのがつらい」って、被災者の方が言っていた言葉が心に残っていて。早くなんとかしなきゃいけないし、自分たちが定期的に声をあげていかなきゃいけないなと思いました。「偽善だろう」って言うヤツには言わせておけばいい。そんなことを気にしている場合じゃない。もともとそういうことを言われたくないたちだったんですが、突き抜けました。」
「なぜそこに至ったかって言うと、助けを求めている人たちがいる。俺らは幸い傷を免れることができた。これは力になれるんだったらなりてえよなって。単純に人情だと思う。人情よりも上に来るもんてなんかあんの?」
「やるんだったらMAX。 MAXっていうのが例えばCOMPLEXだった。ソロでやるよりもたくさんの人が集められる。賛同者からたくさんの寄付を頂ける。単純にたくさん届けられる。」
「日本は3月11日を境にして、違う国になってしまった。人それぞれの意識レベルの差はあるでしょうけれど、僕はそう思ってます。しかも原発の事故以降、この国は世界から信用されなくなってしまっている。TPPの参加、関税自由化について、経済界の人はいろいろな発言をしているけれど、その前に日本という国の信頼を回復するところから始めなければいけないんじゃないかと思う。この大きな危機を乗り越えていくには、まず元気でなければ出来ないので、自分がまずやるべきなのはキープ元気ってことなのかなと。他に出来ることはそんなにはないですから。動きながら、なんとか知恵を絞って、考えていきたい。とりあえず、12月31日にツアーが終わったら、途中で止まっている新作の制作作業を再開しようと思っている。セルフカバーアルバムにしても、今回のツアーにしても、賛否両論あったことは、しかと受け止めている。「本分である音楽をしっかり全うしろ」という意見もあると思う。ただ、自分としては、震災後に、新しいアルバムを作って、普通のツアーに出る気持ちにはなれなかった。ベストアルバムに近いものを作って、その作品を軸としたツアーを回って、収益を全部届ける。まずそれをやることが自分の中では最優先だった。」
「「終わらないSun Set」は電池が切れてすっかり嫌になって、ひとりでニューヨークに行った時、川に面したカフェでポロッと出来た曲だった。シングルにするとか、そんな意識もなかった。その当時はしっちゃかめっちゃかで、葛藤する日々だった。しっかり曲作りをする環境ではなかった。ともかくここじゃないんだ、どこか違うところに行きたいんだって思っていた。じゃあどこを目指すのか。どうすればいいのか。何もわからずに闇雲にもがいでいた。」
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