#1「冬の男」


 「来年はアーティスト以外の部分で・・・・」男はそう語った。それが昨年の国際フォーラムの夜だった。あれから数カ月が過ぎ、時は新しい千年紀を迎えていた。僕はタバコに火をつけながら、目の前に座っている男に視線を向けて、昨年来どうしても聞きたかった質問を口にした。「で、どういうことなんだい?」。男は長い足を喫茶店の窮屈な椅子の上で器用に組み替えながら、こちらに目を向けた。いや、正確には僕の目と彼の目の間には、サングラスの闇があった。デビュー時からしばらくの間、サングラスは彼の防具として役立っていた。「目を見られたくない」たしか、そんな想いが彼にはあった。冬の男 しかし、いつの頃からか防具を必要としない彼がいた。そんな期間が長かった。そして、また今、サングラスという防具で内なるコスモに燃えたぎる炎を隠すように、じっとこちらを見ていた。「いや、簡単なことさ。」なぜか空気の温度が1度の半分くらい上昇したように感じた。彼は続けた。「音楽は命だ。LIVEは人生の本番だと思っている。でもそれだけやってたら、音楽だって先細りになるってことさ。だってそうだろ?俳優だって映画監督だって芸術家の絵描きだって、新聞も読むしCDも聞けばレストランで食事もする。生活しているんだ。そういう生活の中から得られたインスピレーションを切り取るのが彼らの仕事じゃないか。俳優だからって演技論について毎日考えてたらダメだよ。僕らだって同じさ。」そこまで一気に言うと、男は運ばれてきたブラックコーヒーを満足げに口元に運んだ。サングラスが湯気で微かに曇る。が、それはすぐに消えた
 「なるほど。そういうことか。とても理解しやすい表現だな。でも具体的にどんな活動をするんだい?音楽以外で簡単に想像は役者だ。まさか恋愛ドラマにでも出るのかい?」私は冗談めかして彼に言った。意外にも真剣な表情のままの男は、鈍く銀色に光るライターしばらくをもてあそんでいた。言葉を探しているようだった。冬の男やがて男の口からはこんな言葉が流れてきた。「そうさ。俺はデビューが役者だった。今から見たら"なっちゃない部分"だってたくさんあったけど、あの年齢なりに必死にやったんだ。でも、今の俺が言えることはひとつ。あの時の俺は"役者"ではなかった。主人公と自分の共通性に頼り、地のままの自分を演じていただけだ。」男は柄にもなく興奮していた。「あの時はそれでもいい。でももう今は許されることではない。プロとして、音楽の幅を広げるためにも真剣に"役者"になってみたいんだ。そして、そのためにはやっぱり映画だ。映画が一番いい。」言い終わると男はタバコに火を付けて深いため息をついた。真冬の喫茶店には客も少なく、男の声に感心を向けるものは誰もいなかった。しばらくの間の後があった。男はあたりを警戒するように見回すと、少し顔を近づけてきて低い声で言った。「いや、役者の話はどうでもいいんだ。それより・・・・・『紫蛇の伝説』って・・・・知っているかい?」耳慣れない言葉を聞いた私は思わず聞き返した。「シジャノデンセツ?なんだそりゃ?」男の唇のあたりが少し白っぽくなった。男はタバコを陶器の灰皿にすりつけると「ごめん、時間がないんだ。あとでメールする。」と吐き捨てるように言い、皮のシステム手帳と携帯電話を抱えて立ち上がった。「おいおい、いきなりどうしたんだよ。今の話・・・何だっけ。『シジャノ』・・・」言いかけた私を、猛獣が獲物を見つけたときのような鋭い目で睨みつけてきた。それは、これ以上の件について言葉にして欲しくない、聞いて欲しくないという男の気持ちの現れだろうか。とにかく私は動けなくなってしまった。最後に男は言った。「忘れないで欲しい。この冬がスタートだ。」男は足早に喫茶店を出ると冬の街を横切って人混みに消えた。
 まだ湯気を立てているコーヒーカップを見つめながら、私は整理しきれない想いを抱えていた。「いったいどうしたってんだ?『この冬がスタート』?『伝説』?何なんだ?・・・一体どうしたんだ、民川!」その時、ふいに冬の太陽を雲が覆い、さっきまで晴れていた空はとたんに不機嫌になった。と同時に私の携帯電話が鳴った。「もしもし」耳慣れない女性の声だ。「民川を、民川を助けて下さい!このままだと・・・」「!?」そこで電話が切れた。胸騒ぎがした。何かが起ころうとしている。私は小銭をテーブルに置くと民川の後を追うように席を立った。

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